昭和56年7月31日 朝の御理解 (末永信太郎) №56-080
御神訓一
家柄一筋を改めるより、違いに人情柄を改めよ。
先日、英国の皇太子様が(おきさき?)を迎えられましたですね。テレビで、まあ、ちらちら見せて頂いた。まあ、大変な豪華絢爛と言うでしょうかね。やはり、(ろう?)大国英国のそれに相応しい、まあ、結婚式があっておりましたね。私はあれを、あの、見せて頂きながら、いろいろ説明をしておる人の話を聞かせて頂いたんですけれども、英国皇帝には、やはりそこに入られるためには、様々なこう、まあ、演習と言うかね、まあ、昔から伝えられた一つの規則、決まりのようなものがあるその中に、まあ、いう、たしか絶対服従という意味だったと思うですね。
(こうごさま)は言うならば、ご主人ならご主人に絶対服従。皇室内での、その、決まりといったようなものには、絶対服従をしなければならんという箇条があるそうです。それを、あの、そこだけは除いてくれと言われたという話を伝えておりました。皆さんもお聞きになったと思うですね。だから、本当に偉いお方だなと私は思うて、ね、良う行きゃよかばってん、悪う言ったらこうあるだろう、といったような感じがしました。服従はしないと、この服従、と。なるほど人間的な、その、お互いが尊重し合うという、男も女も同じだという教祖様の生き方から行くと、確かにそれの方が本当だと思うですね。
だから、様々なその演習というかね、のために様々な悲劇が起こったり致しておりますが、しかし、昔から言うてあることだからとか、ああいう家柄が違うと結婚をするにしましても、ね、身分が違うとかといったような、それこそ恋に上下はないのだけれども、上下をつける。ね。
歌の文句じゃないですけれども、ね、大きな恋も小さい恋も五十センチ、ね、恋に上下はないと、こういうような歌がある。ところが、私どもはそれに、その、上下をつける。そういうことよりも、人間の心と心、人情柄を改めて、ね、行かなければならんという教えです。
古いことを守って行くということも有り難いですけれども、ね、それが世間狭うなったり、窮屈であったり、人間らしくない言うならば仕来たりであったりするならば、それはやっぱり、改めて行くが本当だと、こう。例えば、教祖がそう教えておる、そう教えておられる、と。ね。
昨日からの御理解ではないですけれども、ね、これほどお話を頂き、とりわけ合楽理念に基づく生き方というものを稽古させて頂いておるのですから、ね、なら、結婚なら結婚のことであってもです、ね、人情柄は改めることはせずに、ただ、格が違うとか、ね、まあ、色々申します、家柄が違うとかと。
例えば、そういうこと、一言でもスッキリと金光教の信者としての、ものの見方、考え方というものが改められていない向きが沢山あります。他のことは分かっとるけれども、このことだけ、そんな訳にはいかんという、一つの例である。ね。私はね、人情柄を改めるという、ね、それこそ神ながらなものにして行かなければなりません。自分に都合の良いことは、ああ、んなら、神ながら神ながらと言う。都合の悪いことは、そげなことではいけんとか、良いとかという風に思う。
そういうこと事態が、なら教祖の御教えを、なら、この御教え一つでも守られていない、行じられていないんだということが感じられます。ね。やはり、金光様の御信心を頂くと、まあ、家柄一筋も、もちろん変わっても参ります。ね。と同時に、ものの見方、考え方も、いよいよ金光教的なすっきりとした考え方が出けなければ、教えを行ずることが出けないということでございます。ね。
金光教によって、言うならば洗礼を受けるというかね。そこに、なら教祖の御教えに基づいて行けばです、これは、この一言だけじゃありません、色々あります。教祖様は言うならば、変わった、今までの人間が考えて来た考え方とは違った、ね、言うならば神様の立場に立ってのものの見方、考え方を教えておられます。だからこそ、金光教が、私は前代未聞の名教だという風に言われるんです。ね。
過去数千年の、まあ、歴史を持っておる大宗教といったようなものの中には、ね、それが本当に人間らしからぬ、人間ではとても出けないというような、言うならば何と言うですかね。仏教なんかは、仏教のために言うなら諦めムードが広がった(宗?し?)。キリスト教なんかの場合は、ね、信心がない者でも、もう、この世は苦の世だ、苦の世界だ、茨の道だ、十字架を背負っているんだと、もう決めてしまっている。
ね、そういう、言うならば観念を一掃することのためにも、なら今日、御教え、家は違いますけれども、教祖の御教えを柔順に素直にス-ッとこう、入って行けれる心の状態を作るということが、大切じゃないでしょうかね。昔から言うて来たことだからと、また、目先目先の人情というような、これは、もう椛目の時代でしたけれども、吉井の熊谷さんの義理の妹さんに当たる方の結婚の時でした。
あるところから貰われて、御神意を頂いたら大変いいということであった。それで向こうに、まあ、きき繕いとか、家を見に行かれたところが、家が小さい家であったということの為だけに、縁談が崩れたんです。ね。そして、その後に動いて、それこそ大きな家の一人息子さんに行かれました。
なるほど、ご主人は銀行マンで、まあ、言うならば立派な男の方でしたけれども、結婚されて間もなく亡くなられました。ね。まあ、そういう例はいくらもありますけれどね。それがどうこうじゃないけれども、例えば御神意を頂いて、例えば家が駒いからとか、何とかといったような事で、その、良いの悪いのと決めるといったようなことが、いかに御神意に叶わんというか、金光教の信心を頂いておる者の生き方としては、ね、言うならば道に外れておるということを思います。
私は、昨日今日、これをしきりに思うんです。これだけ出けておるのに、後もう一つ、ね、七十九から八十、と。もう、広がりに広がるという、その肝心要のところ、もう一つということは、なら、今日の御教えなんかでも、それに当てはまるです。他んことは何でん、教祖様の仰る通りするばってん、結婚のこっだけはそんな訳にいかんと言うたら、もう、それだけでお終いです。ね。
いかんものはいかんとしてもです、そこに、なら、人情柄を改めて行くという(生き方?)を、私はとにかく、金光教の信者、合楽の信者の、その、在り方というものがね、赤抜けするということは、そういうことがスッキリしておるという事じゃないでしょうか。ね。
沢山ありますね、日柄、方位、いわゆる迷信的なそれを看板にしておる宗教すらあるくらいですけれども。ね。そういうこと、ものが全然、その、感じない。ね。御神意にそれが添うものなら、ね、もう、言うならば、それに帰依するということは、そういうことだと思うですよ。ね。右と思うけども左(と教える?)。帰依する方の言うならば、言われることを守るというようなことがです、ね、金光教の信奉者としてスッキリ出けて来るという。ね。それを厳密に言うて行くと、たくさん金光教の信心は頂いておる人がありますけれども、いわゆる、教祖的ものの見方、考え方が、ね、一部は出けて、一部だけは出けんというようなことが沢山ありはせんでしょうかね。どうぞ。